オレ的スポーツニュース速報

様々なスポーツに関する情報をまとめます。

サッカー史上、最もゴールを決めた男、ヨーゼフ・ビカン


この記事は私がまとめました

rulliさん

【本編開始】

1913年、オーストリア生まれ。

【主な所属クラブ】
1931ー1935 ラピド・ウィーン 49試合52得点

1935ー1937 アドミラ     26試合18得点

1937ー1948 スラビア・プラハ 217試合395得点

オーストリア・リーグ優勝  3回(1935, 36, 37)
          得点王 1回(1934)

チェコスロバキア・リーグ優勝   5回
            得点王 10回

【オーストリア代表】
1933ー1937  19試合14得点

W杯1934 4位

【チェコスロバキア代表】
1938ー1949  14試合12得点

彼は、「公式戦、得点数」が、805点で、
サッカー史上1位だ(2019年3月現在)。

順位は
1位 ビカン(オーストリア)  805得点 
 
2位、ロマーリオ(ブラジル)  772得点
3位、ペレ(ブラジル)     767得点
4位、プスカシュ(ハンガリー) 746得点
5位 ゲルト・ミュラー(ドイツ)735得点
6位 C.ロナウド(ポルトガル)682得点
7位 メッシ (アルゼンチン) 656得点
8位 ダーク (ハンガリー)  576得点
9位 ゼーラー(ドイツ)    575得点
9位 トゥーリオ(ブラジル)  575得点
11位 フリーデンライヒ(ブラジル)557得点

写真、中央が ビカン。
   右が  ビンダー。

2才年上のビンダーと一緒に写る、ビカン。

2人の「天才FW」が、ユースから出て来た。
この頃の、ラピド・ウィーンは本当に凄い。

この時代、「サッカー大国、オーストリア」
である。

1930年代のオーストリアは、
シンデラー、ビカン、ビンダーの3人の名選手が
出ました。
その10年後、ハナッピ、オツビルク等が出ました。

現在オーストリアが弱過ぎるので
「オーストリアが、サッカー大国?」
と思うかもしれませんが、昔は違ったんです。

ビカン、ビンダーのような「怪物」選手が
居ました。

写真、右から2人目が ビカン
   右端が ビンダー

2人の「公式戦ゴール数」は

ビカン  805得点(歴代  1位)
ビンダー 546得点(歴代 15位)
です。
(2019年、現在)

サッカー史上、得点数、1位、15位の
「天才ストライカー2人」が、
同時期、同じ場所から出たのは凄い話です。
歴史上、ない事です。

余談ですが、ビンダーは30才から4年間
戦争に行き、サッカーをしてません。
そして戦争の為、27才の時から7年間
オーストリア代表が活動中止になった。
その為、彼の成績は、本来なら、あと150点
は多く、順位は、歴代6位のはずです。
彼は本来はもっと上です。

ビカンは、1934年、20才の若さで、
(W杯直前のシーズン)、
オーストリア・リーグで得点王になった。
29得点(22試合)した。
この年は活躍した為、W杯半年前の時期に
代表デビューし、先発の座も掴んだ。
そして、リーグ終了後、
W杯1934に「チーム最年少」で出場した。

ビカンは20才でW杯初参加したが、主力だった。
彼は、全試合に出場し、
W杯で1得点(4試合)した。

チームは準決勝まで進み、イタリアに敗れた。
そして3位決定戦でドイツに敗れ、
大会4位で終った。

この頃、オーストリアは、
「世界一強い」と評価されていた。

W杯1934では、優勝候補だった。
しかし、この当時、開催国イタリアは、
独裁者ムッソリーニが政権を握り、
W杯では「イタリア優勝」実現の為に、
おかしな判定が頻発した。

オーストリアは準決勝でイタリア代表と対戦して、
0-1で負け、敗退した。

この決勝ゴールも、不可解な判定により、
イタリアに得点が認められた
(GKを押し倒して決めたが、得点が認められた。
この後、イタリアは大会優勝した)。

オーストリア代表は、独裁者の犠牲になり、
優勝を潰された。

中央 ビカン(20才)
 右 名手シンデラー(31才)

当時、シンデラーはオーストリア代表エース。
若手ビカンと組み、強豪チームを実現した。

オーストリアは、W杯1934前の3年間で
21勝6分3敗で、世界最強だった。
しかし、W杯は4位で終った。

その後、1938年、ビガンが24才の時
ナチス・ドイツがオーストリアを占領し
代表チームも消滅させられた。
この時、ビカンは、ラピドと対立した挙句、
チェコに住み、「チェコスロバキア国籍」も同時に
取得していた。
その為、彼はW杯1938にチェコ代表で出場を試みたが、官僚の手続きミスで失敗した。

彼は、その後、チェコ代表で活動した。

ビカンは「20才でオーストリア・リーグ得点王」
になった。
更に、翌年、リーグ優勝した。
故に、彼は給与の増額を要求した。
だが、ラピドはビカンが21才で既に高額の年棒を得ていた為、拒否した。
しかし、ビカンは折れなかった。
彼はその時、スラビア・プラハからオファーを受けていたので、その移籍をちらつかせ、
クラブに圧力をかけた。
その結果、ラピド・ウィーンは激怒して、ビカンを
アドミラに放出する事を決めた。
しかし、ビカンは飛び抜けた能力があったので、
彼の力により、なんとアドミラは、ラピドを倒し
「2年連続、リーグ優勝」してしまった。
そして、その後、ビカンは、スラビア・プラハに
移籍した。

ビカンは、スラビア・プラハ移籍したが、
その際、アドミラが激怒した。
ビカンは集客要員なので移籍を拒んだ。
スラビアはアドミラと経済合意を取り付け、
苦労の末、この問題を解決した。

ビカンは、スラビアに移籍すると1年目から
「1938年、ミトローパ・カップ」
(中欧最強クラブを決める大会)に優勝した。
彼は10得点(8試合)し、得点王になった。
インテル等を倒した。

しかし、この年からナチスがチェコも侵略し保護国とした為、ビカンは製鉄所勤務のセミプロにされた(終戦の1945年まで、7年間、働いた)。
更にヒトラーは、彼をドイツ国民にさせ
ドイツ代表にする事を望んだが、ビカンはこれを断った。

彼は、24才で、祖国オーストリアを捨て
チェコ人になる事を決めた。

ビカンの父親はチェコ人だった。
また彼は少年時代、夏休みにはチェコの祖母の家に遊びに行っていた。
その為、彼のルーツはチェコであったし、
親戚も住んでいた為、彼にとってこの地は昔から
第二の母国というべき存在だった。

彼はナチス政権に支配され、代表チームまで消滅させられたオーストリアの酷い状況を見て、
もはや国籍を変更する事に抵抗がなかった。

写真 左 ビカン。

彼は、23才の時に、母国オーストリアを離れ、
翌年、24才、チェコスロバキア人になり
新しい人生を始めた。

そして、チェコで大スターになった。

23才でチェコのビッグクラブ、
「スラビア・プラハ」に入団すると
ミトローパ・カップで得点王になり
リーグ戦では10回も得点王になった。

また彼は「5年連続、欧州最多得点」を達成した。
チェコスロバキア・リーグが、少しレベルが
低かった為、達成できた記録とは思うが
(今よりは遙かに高いと思うが)
偉業である。
当時、強豪オーストリア代表で
20才で、既に主力だった天才選手が成長すると
とんでもない記録を作るものだなと思う。

彼はスラビア・プラハで
1939年から1944年まで、
5シーズン連続で、
リーグ戦、「欧州最多得点」を記録した。

「5年連続達成」は、
歴史上、未だに彼一人である。

以下が、欧州1位の年の成績だ。

1939ー1940 52得点(22試合)
1940ー1941 38得点(22試合)
1941ー1942 45得点(20試合)
1942ー1943 39得点(20試合)
1943ー1944 57得点(23試合)

これらの結果、1955年に彼が引退し、64年経つが
(2019年現在)未だに「公式戦、得点数」、
世界で歴代1位だ(805点)。
誰も抜けない。

彼の実力に驚愕し、チェコスロバキア時代、
イタリアのビッグクラブ、ユベントスが熱心に
獲得に乗り出した。
しかし、共産主義嫌いのビカンは、
当時、「イタリアが共産主義国家になりそうだ」
という噂を聞き、それを信じてイタリア行きを
断念した。

しかし、皮肉な事に、その後、チェコスロバキアが
共産国となり、彼はその為、西欧に移籍する事が
不可能となり、選手時代をチェコスロバキアで
最後まで過ごす事となった。

と言う訳で、彼は世界超一流FWだったが、
移籍の自由を失い、共産圏で生きた。
彼がユベントス等で、プレイしていたら、
彼の名声は後世にもっと轟いていた事だろう。
その点は、残念な話である。

終戦3年後、1948年、チェコは共産国になった。
ビカンは、共産主義が大嫌いだったので、
チェコ共産党に入党するのを拒否した。
すると政府に監視され
「周囲から孤立させられる状態」にされ、
多くの財産と友達を失った。
スラビア・プラハは、伝統的に共産党が嫌いな
中産階級が支持するクラブだった。
その為、ビカンは共産党政府の機嫌を取る為に、
翌1949年、労働者階級が多い町、
ビートコビィツェという小クラブに入団した。
彼は35才で、23才から居たスラビアを退団した。

しかし、彼はこの小クラブでも36才で、
10回目の得点王になった。
本当に怪物である。

ビカンはビートコビィツェで3年過ごした後、
38才で2部の「フラデツ・クラーロベー」という
小クラブに移籍した。
しかし、「労働運動パレード」招待を受けて、
それに参加した事で、共産党が怒り、町を追放された。
この会合で、労働者達はザーポトツキー大統領を
称賛する代わりに、スターのビカンを称賛した。
これを知った共産党は怒り
「ビカンに町を出る命令」を下した。これに対して町民も怒り、説明を求め駅に連れて行かれるビカンを止める為、集まった。
その場で共産党は、「駅に我々を入場させれば
ビカンの安全は保障する。そして、今後ストライキを起こすならば、お前達を牢屋に20年以上入れるだろう」と回答した。

ビカンは、フラデツ・クラーロベーの町から、
共産党により追放された翌年、39才の時
古巣、スラビア・プラハに帰って来た。
当時、スラビアは、共産党により
「ディナモ・プラハ」とクラブ名を変更させられていた。(当時、ソ連がスポーツ・クラブに
「ディナモ」[英語でダイナモの意味]と付けたので、その影響で模倣した)
しかし、古巣は古巣で、彼の家であった。
彼はここで3年過ごし、42才で引退した。
ビカンは、サッカー人生の最後を
最も愛するクラブ、「スラビア・プラハ」で
引退する事ができた。

彼は、現役時代、ヒトラーにも、共産党にも、
勇気を持って対立を試みた「強い男」だった。

写真、左が ビカン。

ビカン(29才)はこの試合、2得点した。

この前年、
「1942年3月15日開催、プラハ・ダービー」
でも、スラビアは、「8-1」で歴史的大勝をし、
スパルタ・プラハを下していた。
ビカンは1人で4得点した。
一昨年、
「1941年12月7日、開催されたダービー」でも、
スラビアは、スパルタに7-0で大勝していた。
ビカンは、この試合、2得点した。

スラビアは、3年連続で、「大勝」を記録した。

この頃、スラビアには、全盛期のビカンが居た為、
ライバルのスパルタに毎年、歴史的大勝を挙げていた。

左、ビカン(31才)。

当時のチームメイトは、ビカンについて、
「ビカンは、テクニックがあり、両足が器用で、
ヘディングが強く、ポジショニングが良い。
パスは正確で、全て兼ね備えているというタイプの
選手でした」
と説明している。

ビカンは生前、自分について
「私の時代の方が得点し易かったとよく聞くが、
試合中の決定機は、100年前も同じで、これから先、100年後も同じだろう。
『試合中、絶対に決めないといけない機会という
モノはある』。これについては世界中で、納得してくれるだろ。もしそれが5回あったならば、
私は5回全て決めた。7回あったならば、
私は7回全て決めた」
と説明している。

ビカン(24才)は、全盛時、「ミトローパ・カップ」でも得点王になった。
彼は、欧州最高FWだった。

「1938年、ミトローパ・カップ準々決勝」で
スラビアは「イタリア王者、インテル」と対戦し、
ホームでなんと「9-0」で勝利した!!
ビカンは、「1人で4得点した」 !!

この時、W杯1938、3カ月後で、イタリアはW杯優勝国だった
(注:ミトローパは9月開催だった)
ビカンはW杯出場してたら活躍できただろう。

彼は、現在著名なビッグクラブ
(R.マドリード等)に、在籍していたら
現在、相当、違った扱いだったろう。
彼ほど実力を正確に把握されず、過小評価扱いの人は居ないのでは?
と思う。

写真、右が、ビカン。

彼は、オファーを受けたイタリア・ユベントスに
移籍していたら、恐らく、セリエAで、
得点王は取れただろうと思う。
(彼はインテルからミトローパで4点取ったので、
ライバルのユベントスは欲しがったのだろう。
ちなみに当時、対戦したインテルには
名手、メアッツァが居た)

彼の「公式戦、最多得点、805点」が未だに
破られていないというのは、とんでもなく凄い事で
ある。
ペレ、ロマーリオでも破れなかった。
メッシ、C.ロナウドは破れるのだろうか?

未来は分からないが、この記録が大記録である事は
確かである。

そして、彼が「超一流FW」である事も確かで
ある。

写真、右、ビカン(33才)
   左、ビンダー(34才)

青春時代、ラビド・ウィーン下部組織で共に過ごし、20代初めまで一緒だった2人。
2人共、天才で、若くしてオーストリアで得点王に
なった。

時代は流れ、
ビカンはチェコスロバキア主将となり、
ビンダーは混乱はあったが、オーストリアに
そのまま残り、天才2人は、敵同士、「主将同士」で対戦をした。
この年まで代表で通用してるのが凄い。

この試合、チェコが敵地でオーストリアを
4-3で下した。
ビンダーは2得点したが、惜しくも敗れた。
ビカンは「凱旋試合」で勝利したが、無得点に
終わった。

写真、左、白いユニフォームがビカン。

ビカンは、1938年、24才の時、
チェコスロバキア代表で初出場した。
スウェーデン代表と敵地で戦い、
6-2で勝利した。
彼は、ハットトリックした。
怪物は、代表デビューを華々しく飾った。
その後、2試合(ユーゴ、ルーマニア戦)で
計5得点して「3試合で、8得点」という
驚異的ペースだった(チェコは3連勝した)。
しかし、この3試合で代表戦中止になった。

第二次世界大戦が起きた為、
1938年12月から1946年まで、7年半、
チェコ代表戦は行われなかった。

彼は再び代表戦に出場するのに32才迄、待った。
彼は全盛期を戦争に潰された。

写真、右が ビカン。

1947年、ホーム、プラハで
「チェコスロバキア 対 ユーゴスラビア」
の試合が行われ、3-1で、チェコが勝利した。
ビカンは2得点した。
(ビカンにとって8年半ぶりの代表ゴールだった)
[彼は35才で代表引退した]

チェコスロバキア代表は戦争の被害を受け、
7年半、代表の試合を中止していた。
故に、この間、ビカンは得点しようにもできなかった。
だから、戦争がなければ、ビカンはあと100得点以上多く、公式戦で得点できたはずだった。
現在、ビカンは805点で「世界、歴代1位」だが
彼は、公式戦で「900点超え」をできたはずだ。
そういう意味で、本当に運がない選手だ。

写真、左が、ビカン。

この写真は、スラビア・プラハ公式サイトによると、
「1953年、6月11日の親善試合、39才」と
説明されている。
公式サイトが、間違っていなければ、本当に39才である。

彼は4年半ぶりに、スラビア・プラハに戻って
来た。
39才でまだ現役だった事は、凄いと言うより
他ない。3カ月後に40才だった。
彼が「40才で、ビッグクラブで通用していた」
のは、「怪物」的である。
この頃は、もう得点王を獲れなくなっていたが、
試合に出ているだけでも凄い事だと思う。

公式サイトの写真の説明が本当ならば、
39才にしては、かなり良いフィジカルの仕上がりではないかと感じる。

私見ですが、
「この人、ペレと同じくらいのレベルではないか?」
と思っています。

ビカンの父親は、チェコ人だったので、
彼はチェコに対する愛着が元々、強かった人だと言われている。

ビカンは、オーストリア人だが、
チェコに移住後、大成功して、当国のレジェンドとなった。
彼は才能的には、チェコ史上最高FWだ。
(彼は試合数が少ない為「代表最多得点」記録は持ってない)
また、クラブ面では、
「スラビア・プラハ史上最高の選手」と評価されている。

彼は、スラビア・プラハで大活躍した為、
引退後、64年も経つが(2019年現在)
未だに「チェコ・リーグ最多得点記録、447得点」
を持っている
(注:現在、2位でも252得点で、200点差がある)
恐らく、永久に破られないだろう。

ビカンは1948年に現役引退しました。
そして、スラビア・プラハは1947年に優勝後、
なんと「49年間もリーグ優勝できなかった」。

次にリーグ優勝したのが、1996年です。

チェコスロバキアが消滅し、
既に新国家「チェコ」になっていました。

ビカンは1948年に引退したので、その後、
愛するチームの優勝を見るのに、
48年も待ったという事です。
彼はさぞ歯がゆかった事でしょう。

これ程、優勝できなくなった話も珍しいですね。
「史上最高ストライカー」、ビカンと共に、
スラビア・プラハの栄光は一気に消えたという事です。

彼は「俺が若ければ・・・優勝できるのに」
とずっと思っていたかも。

-Uncategorized

×