オレ的スポーツニュース速報

様々なスポーツに関する情報をまとめます。

2019年大河ドラマ主人公・金栗四三は、偉大なオリンピックマラソン最遅記録保持者!!記録はなんと…?


この記事は私がまとめました

1・男子マラソン最速記録は…?

2・では最遅記録は?

オリンピックのマラソン競技でもっとも遅かった記録は、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3だそうです。1912年にスウェーデンのストックホルム大会で、日本の金栗四三(かなぐり・しそう、1891年~1984年)が記録したものです。と言いますか、54年以上もかかっているわけですので、1912年の記録ではなく、1912年から始まる記録ということですね。ちなみに、42.195kmを54年8カ月6日5時間32分20秒で割りますと、うるう年などがあって正確とは言えませんが、1mを40898秒、すなわち1mを11.36時間で走った計算になります。

そう考えるとすごいですよね。

記録はなんと、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3です。これは絶対に破る事は出来ないでしょう。ストックホルムオリンピックでたたき出した記録です。といっても、彼は無能なランナーではありません。

金栗四三選手は、ストックホルム・オリンピック開催の前年(1911年)に行われた国内予選で、独自に開発したマラソン足袋をはいて走り、当時の世界記録を27分も縮める記録をマークしました。

遅いランナーどころか、世界一の実力を持っていたのです。しかし不幸が重なりました。

すさまじい暑さの中、走った結果大勢が倒れて死人が出る事態になりました。金栗も例にもれませんでした。

うまくいかず、走って会場に行く羽目に。

そのオリンピック出場も簡単ではなかったようだ。この時代、空路がないため鉄道で2週間かけて現地入り。その間当然、電車内でのトレーニングしか方法がない。遠征費も自腹だった為、田舎の田畑や山を売って資金にしていたようだ。

現在でも費用は問題になりますが、今以上に難易度が高かったことが想像できます。

船かシベリア鉄道が主体です。そのうえでヨーロッパ周辺に船で行き、合わない食事をして、手違いで会場まで走って、40度の暑さならどうしょうもありません。彼は26キロの地点で倒れて、記録は「試合中に行方不明」となりました。しかし、当時オリンピックには危険はあっても、行方不明というのはないのです。

3・そこに様々なドラマがあったのだ!!

金栗は、東京高師の学生時代に日本が初参加した1912年(明治45)のストックホルム五輪にマラソン代表として出場したが、途中棄権に終わり、失意のまま帰国した。

本人は競技中の暑さで、気を失い気が付いた際には大会は終わっていました。しかし本人が棄権を申し出ていないので、タイムはどんどん計測されていたのです。

地元の人(ペトレ家)に助けられた後、競技場へは戻らずまっすぐ宿舎に帰りました。そのため正式な棄権の届出が本部に届いていなかったようです。
このことで金栗四三という選手は、スウェーデンでは「消えた日本人」、「消えたオリンピック走者」として語られることになりました。

伝説を残して、54年後再びという事です。

ゴールを果たした瞬間、「日本の金栗が只今ゴール。タイムは54年8か月6日5時間32分20秒3…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされ、金栗選手の姿はスウェーデンの公共テレビで放送されたのです。

金栗氏も感無量だったことでしょう。

ゴールの瞬間、場内には「只今のタイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、これで第5回ストックホルム大会は総ての競技を終了しました」とのアナウンスが響いた。これは近代オリンピック史上最も長時間のマラソン競技記録であり、五輪全日程終了までの期間としても史上最長。今後も破られる事がないであろう不滅の金字塔となっており、金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。

ストックホルムも粋ですが、金栗さんも素晴らしいスピーチですね。このつながりは孫の代にも引き継がれたようです。

知ってるつもりは名作だと思うのです。

4・あの大会や呼吸法は彼が考案した!!

ランナーとしての金栗四三は、1920年のアントワープ・オリンピックと1924年のパリ・オリンピックにも出場します。そして、アントワープでは16位で完走しますが、パリでは残念ながら途中棄権しています。また、彼は1920年に第1回が開催された「箱根駅伝」のために力を尽したり、女子の体育を奨励したりして、「日本のマラソンの父」と呼ばれています。彼が生涯で走破した距離は25万kmと言われ、それは地球を6周と4分の1周ったことになります。

日本マラソンの父といっても過言ではありません。

1917年(大正6)に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだ。
東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となった。
「東海道駅伝」の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたというのが、創設のいきさつである。

とても重要ですね。こういった大会がなければ今の日本マラソンはありませんからね。

ストックホルム大会の、暑さで倒れた彼だからこそ説得力があります。

ストックホルムで見た外国人が履くゴムを底に付けたシューズがヒントとなり、ゴム底の「金栗足袋」を開発。多くの日本のマラソン選手が「金栗足袋」を履いて走りました。

これがのちのマラソンシューズに繋がっていくんですね。

金栗氏のトレーニングも凄く奇抜で石の上を二時間足踏みや2回吸い2回吐くという呼吸法など独自のトレーニングやテクニックを開発していた。

こうした呼吸法は今でも活用されています。本人だけでなく、後身の為にどれだけ活躍されたかがうかがえます。

ランニングの際の基本的な呼吸法は「吸って吸って吐いて吐いて」です。

実際の呼吸の音でいうと「スッスッ→ハッハッ」という感じになります。

ただし、最初の「スッ」と2回目の「スッ」を明確に区切るのではなく自然におこなうのがポイントです。

これを子供の頃から知っていた彼は、すごいです。

5・2019年大河ドラマは、金栗四三が主人公

-Uncategorized

×